要注意!性モラルの堕落(レビ記を専攻した者の私見)

現在、日本で放送されているテレビドラマを数本観させていただきました(ザッとね)。
そのうち1本は「禁断の愛」が描かれているもので、2本は大筋の中に「禁断の愛」が織り込まれている内容でした。
その禁断の愛とは、レビレート婚を含む「近親相姦」です。
※レビレート婚に関しては日本では戦後も続いていました。
驚きました。同時期に何本も。これは偶然でしょうか。
最近の日本には、そういう形の恋愛(?)がスリリングで刺激的と感じる方が多いのでしょうか。そうでなくとも、ドラマだからいいかなと何となく受け入れられているところに危険を感じます。日本人の性モラルの堕落が、人気俳優や女優が演じることによって、あたかも尊く儚く美しいもののように描かれているのです。


レビ記18〜20章は「性小結集」と呼ばれ一般人に対する性生活の宗教的、倫理的な規定が記されています。
いわゆる性生活のモラルについて書かれています。


18章では、近親結婚を望ましいとした古代習慣が大きく改められています。中でも6〜18節では特に12の近親関係を挙げて、それを禁止しています。
この箇所で結婚を禁じられている親等は、今日の民法と大差がありません。一つ言うなら、叔父と姪との禁止項が抜けています。
これらの規定は、家庭内(人間と人間のつながり)を清く保つばかりでなく、劣性遺伝を防止し、健全な子孫を得るために大きく貢献しています。
イスラエルが民族として優秀性を保つのは、偶然ではないのです。


さて・・・残念なのは、聖書をよく読んでいる方の中にもレビ記を軽視している(読まないのか読めないのか・・・)方がいらっしゃるということです。
私たちには「関係ない」といわずとも「現代には適用しない」「新約時代に突入し新しい契約になった。レビ記は古い契約」などと現代に生きる自分とかけ離れたものとして、普通に傍観者となっておられる方が意外と多いのです。


「規定」となると、それを守るか守らないかということが問題となり、守らなければ裁きの対象となるという不安が生まれます。
「自分は弱い人間だからこんな規定は守れない。罪は赦され神はこんな自分をも愛してくださるのだ」と思っている方に聞きますが、聖書はあなたにとって何でしょうか。


レビ記はただの「規定」ではなく「神の愛」の結晶です。
「神の愛」ですから、守るか守らないかではなく、受けるか受け取らないかということが問題なのです。
神は、規定を守れない人間を裁くためにモーセに命じレビ記を記させたのではありません。
人間を、弱いあなたを、私を、守るために与えてくださいました。
レビ記は神の憐れみそのものなのです。
神の憐れみを受けてこそ、あなたの中からかぐわしいキリストの香り(品格/モラルも含む)が放たれるのです。


言い訳をしないで、レビ記を真剣に読んでください。
上手く空気なんか読まなくてもいいんです。
レビ記を質問なしに読める人などいません。学びたい方、一緒に読みましょう。スカイプをいつも開放しています。質問も大歓迎です。
新年からと言わず今からどうでしょうか。

アメリカの光と影

たあいのない事が、とんでもなく、人生を苦しいものに変えてしまう・・・もしくは、そうなるのではと想像してしまうことはありませんか。
日本では、疑わしきものは罰せず。
しかし・・・アメリカはそうでないときがあります。
疑わしきものも、厳しい処分をもって取り扱うことも。
灰色=黒 となることを多々みてきました。
大人でも子供でも容赦しません。
さらに権力をもって押さえつけ、2択させます。
罪を認めるか(コミュニティーから蹴り出されます)、それとも言い訳をして身も心も哀れなヤツだと周囲に公表するか(コミュニティーには入れなくなります)。
どちらをとっても最悪のように思えます。
無実だという証明は初めからできなくしてあるのです。


主よ、何よりもあの子の心をお守りください。
歩む道を整えて欲しいのです。


今、夜中の3時なろうとしています。
あの子は眠れているのだろうか・・・。
外は土砂降りの雨。
あの子の心模様かもしれない。


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神との交わり

聖書に
「ことばは神であった」
「ことばの内に命があった」
「命は人間を照らす光であった」
とあります。


「命」のことをあらためて考えてみました。
聖書によると「命」とは、「ことばの内にある」ものであると語られています。
肉体的生命のことではないのです。

命は神の内にあるということです。
神との関係の中にあるものが命。


・・・とするならば、「死」とは、神との関係が途絶えること、関係がなくなることを意味しています。


ここ数週間、私は死んでいたことになります。
が、ご安心を!「復活」しました。


神との交わりは、神秘的・直接的なものではなく、聖書に書いてあるとおり間違いなく「ことばによる」交わりでした。アーメン。
「ことばは神であった」(ヨハネによる福音書1章1節)


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人の心に棲まうもの

我が家にMEZがやってきました。
MEZは中型オウム(全長31cm)、推定10才です。


MEZは、マサチューセッツ州に唯一ある鳥シェルターからやってきました。
一週間前、土砂降りの雨の中、家から車で2時間ほど離れたところにある施設に息子と二人で引き取りに伺いました。


オウムは知能が高く長生き(25〜60年)、1km先まで聞こえる啼声のため都会やマンションなど狭いところでは飼いにくいといわれています。
シェルターにいる大型・中型のオウムたちは、人間の都合で熱帯雨林から連れてこられ、高額で売買されたり交配されたり、密輸されている代表動物ともいえます。
果てに飼主はオウムはペットに向かないと虐待、ネグレクトし、殺してしまうと始末がややこしいので、その前にシェルターに置きに(捨てに)くるそうです。


シェルターにいた鳥達の姿に私たちは絶句してしまいました。
本来はとても美しいであろうカラフルな羽がストレスのために抜け落ちてしまい・・・まるで鳥ではないようでした。
2年間もクロゼットに閉じ込められたオウム、啼声がうるさいと首に鉄環をはめられたオウム、麻薬組織逮捕時に保護したオウムなど。鉄環はドリルで切らないといけないそうです。


オウムは知能が高いため、虐待した者の顔や性別を10年経っても忘れないそうです。
また種類ではなく個体でそれぞれ性格が違うため、飼う前に何度か訪れて性格が合うかどうかをみる必要があります。
オウムが人を観る(観察する)のです。
MEZを引き取る前にシェルター職員が念入りに調べたことは、私に動物虐待をした前歴がないか、またオウムを飼った経験があるか、どのような環境、家(部屋)に住んでいるか、人柄(性格)、家族構成(子供が苦手なオウムが多いため)です。
7枚の書類と2枚のリファランス(私のことを知る人物による推薦状)を元に調査します。


「あなたに飼っていただけたらいいのではないかと思うオウムが三羽(候補)がおります。会いにきてもらえますか。」と連絡を受けたのは先週の日曜日(19日)。調査にパスしたようです。4日後にシェルターに伺うことになりました。


MEZはパイオニスの男子。
しつけはできていて子供好き(子供がいても問題なし)、臆病だが馴れればとてもおしゃべり、男性に対し辛い経験(虐待?)があるので飼主はオウム飼いの経験者で女性、他に鳥(その他ペット)を飼っていない、基本、飼主(私)が家にいるような職種についていること・・・が条件として提示されました。
教会は目と鼻の先。バイブルスタディーは我が家を中心に行っています。
私自身、オウムを飼った経験はありませんが、祖母が日本でも珍しい大型オウム(アマゾン)を長年飼っていました。このことが、今回、私がオウムを引き取り育てることができるとされた大きな要因の一つのようでした。


MEZを引き取るにあたり、自分のこと、生活習慣や生活パターンを改めて見つめるよい機会が与えられ感謝しています。また、人間の都合やエゴで苦しむ動物たちをみて、人間はこんな小さな生き物にどこまで冷酷になれるのかとそら恐ろしくなりました。感情でなく事実をみて・・・自分も含めて、人間にある罪の本質を心苦しく、悲しく感じました。



MEZ、これからも末永くよろしくね。


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イエス・キリストは人であり神である

・・・というと大概のクリスチャンは理解する。
にもかかわらず、聖書は神の言葉であり人の言葉でもあるというと違うという。


・・・あのね、聖書は神の霊感によって人が人の手で人の言葉で書いたものです。
それはまぎれもない事実であって、だから現在・・・私たちが手に取って聖書を読むことができるのです。


私たちはもっと人に興味をもって、人を見なければなりません。
もし、私たちが神に興味をもって、神を見上げて歩むならば。。。
そうでしょ?


聖書には「わたし(神)を愛するということは、隣人(人)を愛することです」ときちんと書いてあります。


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何とかぶらさがっている実

顔では笑っているのですが、実は「何じゃそりゃ」「それはないで」とか「そんなアホな」と・・・いわゆる漫才でいうツッコミばかりしています。心の中では笑っていないことが多い私。


身に覚えのない攻撃をされ、足が震えるほどショックを受けても、笑顔を崩さず冷静さを装い対応している自分が、自分でないような気がするときがあります。
「おぉ〜頑張ってる、わたし!」なんてシニカルに考えながら・・・。


自分が誠実なのかそうでないのか、真面目なのかそうでないのか、神経質なのかそうでないのか、よくわかりません。


他人が、いわれのない、途方もない怒りを私にぶつけてきたとき、仕返ししてやろうか・・・私もいわれのない、途方もない怒りを貴方にぶつけてあげようか?と思うこともあります。こわいでしょ?!
さらに、私は耐えられたけど、きっと貴方には耐えられないでしょうね・・・とも。


「あなたが弱いとき、わたしは強い」
イエス様、あなたの出番です!


多分・・・他人から見た私は、逆ギレされても大丈夫だと思えるほど強い人なのでしょう。
でも・・・私の心はあなたと同じくらい狭いのよ。


・・・あとでとって付けたように「寛大な方なんですね」「柔和であられるのですね」「柔軟性はどうやって身につけるのですか」と言われ・・・晴れて冒頭の文章につながるのです。


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ボストンの春 涙

ボストンへの心残りはセイコのこと
あなたのことだけが心配


でも、あなたは弱いけど強いから・・・
私がボストンでやってきたことをセイコが必ず引き継いで
ボストンがイヤになったらシカゴか日本においで(笑)
何かあったら絶対に電話ちょうだいよ
ボストンは懲り懲りだけど、もしセイコが電話してきたら私はボストンに来るから


「先生、ありがとうございます。牧会を始めて、先生にお会いしたこと一番主に感謝しています。。。しんどかったけど本当に楽しかった。頑張ります!先生のお働きに益々油が注がれますように毎日祈っています。」


わかったから、早く行って
あなたの顔を見ていると涙が出てきそうになるから
早く、早く行って
バイバイ、元気でね


とうとう・・・先輩牧師イズミー(愛称)が帰国しました。
涙はもう溢れていました。
ボストン(ニューイングランド地方)でたった一人の韓国人女性牧師、日本語がとても流暢で日本人留学生伝道に力を入れていらっしゃいました。
言葉のセンスがピカイチで、新米牧師の私にとってどれほど励みになったでしょうか。
共に働かせていただき、いろんなことを学ばせていただきました。



。。。さみしくなります。。。
イズミーの帰国、まだ実感が湧きません。



ボストンの春
別れと出会いの時。
悲喜こもごもでなく、嬉々こもごもと言える強さが必要です。





Rev. Izumi(Cha) Komaba


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