「みかん」に想う

愛媛県の松山港にフェリーが入港する5分前・・・

甲板に出た私たちには、船がつながれるであろうギリギリのところで待っている祖父母の姿が見えました。
いつも二人で立っていて、手を大きく振っています。
子供心に何か嬉しいような恥ずかしいような・・・くすぐったい気がしたものです。

小さな頃から自己主張が強く、負けず嫌いでワガママな私は、よく祖父に叱られました。
白い大蛇が出る納屋に閉じ込めると言われてもヘコたれない(?)ほどの頑固ぶりを発揮していました。

そんな・・・厳しいけど子供が大好きだった祖父が3年前に、寡黙で優しい祖母は去年の夏、天に召されました。
私がボストンでドングリ牧師になったことを知らないままです。


愛媛にいる友人のブログにこのようなことが書いてありました。


ある方の家にみかんの木があって、毎年時期になるとたくさんの実をつける。
そのみかんはその家のお父様が植えたもので、お父様はその事を告げないまま亡くなられた。
みかんが実をつけ始めたのはそれから数年が経ったころだった。

我々、今を生きるものは先人から、それぞれ「みかんの木」を貰っているのではないか?
収穫するのは自分だが植えたのは別の人。
日々働きながらその日の糧を得ているのは自分の力によって、というのは錯覚で、ずっと昔に「みかんの木」を植えた人のおかげで、今その実を食べることができる。

そうすると今、私たちが働いているのは自らのためにではなく、これから先の世代(子孫)に「みかんの木」を残すためなのではないのか。


「お前は誰に似たんかのぅ・・・」よく言われました。
私の頑固さは、じーちゃんに似ていなかったでしょうか。
父母、祖父母、その前にずっとずっとさかのぼって・・・きっと誰もが知らない先祖にすごく似た人がいたかもしれません。その人も会うことのない未来の私たちのために木を植えてくれたんですね。
私は、木に、たくさんなったみかん(実)を収穫させていただいています。
その種をしっかりと植えて、まだ見ぬ、未来の・・・私に似た誰かにつなげていきたいと思う今日この頃・・・
ホレブの山で、神さまに子孫が行く“約束の地”を見せてもらったモーセの気持ちがわかったような、わからないような。。。

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